2014年07月21日
可愛がっていた

袋の中をみる間もない数分の出来事でしたので、一言、お礼を申し上げるのが精一杯の私でした。。
その時、K君の野球練習後、我が家に寄った次女家族がいました。
私は、Kさんがいらっしゃる事を伝え、家族でご挨拶をするように言い、束の間でしたが久しぶりにMちゃんも、Kさんご夫婦に会う事ができました。
ロスアンゼルスに、夫の赴任で渡った時、次女のMちゃんは、まだ幼稚園の年少さんの年頃でした。
長女は、小学校1年生。
夫から、海外転勤を知らされた時、社宅の襖の陰ですすり泣いた、今と違い、純な自分を、懐かしく思い出します。
その一番の理由は、孫達を生き甲斐のように可愛がっていた母を置き去りにする悲しさからでした。
無論、私自身、異国で暮らす心細さもあったに違いありません。
2014年07月21日
俺には理解できない

不愉快なニュースばかりだから寝ながらや野球を見る、と言って女房は2階の寝室へ。俺は野球に興味がないからブログを書いている首爾自由行。
野球にしてもサッカーにしても他人がやってるのを見て何が楽しいんだ? 自分でやるなら未だしも。観客だかサポーターだか知らないが熱狂ぶりには腹が立つよ。馬鹿モン!
観客型人間には主体性がないんだろな。その他大勢が好きなんだよな。俺には理解できない。折角生まれてきて個が無いってのは勿体なくないか。どうでもいいや塑膠回收。
自意識過剰で協調性が無く反体制的で独り相撲ばっかりとっている自分が悲しくないか? 悲しくはないが納得のいく生き方を爺になっても模索している自分が滑稽だね。でも他人になろうとは思わない。
どんなに不幸な人間でも幸福な他人になろうとは思わないだろ。そこが人間の救いだ。他人になるってことは自分を殺すってことだからな雪纖瘦。
ああややこし。小便して寝よう。では明日。ごきげんよう。
2014年07月15日
まわりを絶壁

そんな壁を破るヒントが、『三国志』にあります。
劉備、関羽、張飛が率いる義勇軍が、初めて敗北を経験した時のことです。
敵の賊軍は、高い山の上に陣取っています
雪纖瘦。
そこへ向かう道は1本しかありません。
しかも細い谷間のような道で、両側には岩の壁がそびえ立っています。
ふもとから、勇ましく突撃しても、毎回、この道で狙い撃ちされ、敗退してしまうのでした。
劉備玄徳は彩盒、
「敵の陣地は、まわりを絶壁で囲まれている。この1本の道以外に、攻め口はないのだ」
と、沈痛な顔をして、考え込んでしまいました。
すると、張飛が突然、
「いや、ある、ある。
あの絶壁をよじ登って、敵の予測しない所から不意を突けばいい」
と言い出しました。
2014年07月15日
人生の羅針盤

こんにちは、木村耕一です。
自分の故郷について、案外、知らないものだな……と、つくづく知らされたことがあります。
文筆家として活躍する70代の大先輩・T氏と、東京・神田で食事をしたときのことです。
「好きな作家は?」と尋ねると、T氏からは、「堀田善衛(ほった よしえ)です」の答え 懷孕前準備。
どんな漢字を書くのか、男か女かも、私には、分かりませんでした。
するとT氏、
「富山県の生んだ、偉大な芥川賞作家ですよ。
あなたも富山県出身でしょう。
知らないなんて、本当ですか?」
恥ずかしながら、知りませんでした。
堀田善衛は富山県高岡市伏木の出身。
私も同じ高岡市生まれなのに……。
さらに驚くべきことが探索四十 洗腦!
宮崎駿監督が、長編アニメの制作から引退を表明した記者会見で、「堀田善衛」の名前が出てくるではありませんか。
宮崎監督は、若い頃から堀田善衛の作品を愛読し、人生の羅針盤のように心の拠り所としてきたといいます。
自分の尊敬する日本人であり、大恩人であるとまでいいます。
これまでの作品作りで、一番影響を受けたのは堀田善衛だ、と語ったこともあります。
富山県出身者としては、やはり驚きでした。
かつて「裏日本」といわれ、なんとなく日本海側の卑屈さを、どこかに持っていた自分には、心が晴れるようでした。
東京へ出てきて、まもなく15年 韓國食譜……。
故郷の魅力を、今一度、見つめ直してみたいと思います。